床をなんとなく眺めてた俺の視界に、黒い革のパンプスが飛び込んできた。その上にぬっと伸びた太く白い脚を辿って視線を上げたら、真新しいスーツを着込んだ女が立ってた。
またかよ、と心の中でつぶやく。
新学期が始まってから、毎朝同じ車両の同じ席に座っている俺の前に、同じ女が立つようになった。
女が、
ふぅうふぅう、と数度深呼吸を繰り返しているのも、その息が額に掛かんのがキモチワルくて眉をしかめるのも毎日のことだ。
女の、でっぷりと歪んだ頬のラインに、くっきりとファンデーションの白い筋が見える。顔よりワントーンは濃い色の首筋には、数滴の汗が浮かんでいた。
中学に入学してから、片道30分の電車通学が始まった。2年前の、4月8日。ぶかぶかの制服を着て、俺は買ったばかりの通学定期を弟たちに自慢げに見せびらかしながら言ったさ。
どうよ? 今日から俺もオトナなんだぜ?
って。まだ素直だった弟たちは、目を輝かせて羨ましそうにしてた。何がそんなに嬉しかったのか、今じゃもう謎だ。
中学生?
大人になったのは、バスや電車の運賃だけだったよ。ホント、そんだけ。
まぁテニスはかなり上手くなったし、大人相手とでも互角に渡り合う自信はある。でもそれは「大人になった」のとはやっぱ違う気がする。
俺が毎朝乗る下り電車はそれなりに混んでいて、でも早過ぎるせいか満員とは言えない。微妙。毎朝乗り合わせるのは、どこか疲れたような、何かを諦めたような表情の「大人」たちだけ。もっと微妙。可愛いオンナノコとの出会い期待してた俺の純情返せ。座席に座れなかった男が、吊り革に捕まったまま器用に居眠りしている。これはマジで凄いと思う。ある意味妙技。
目の前の女が手提げの黒い鞄からカバーのない本を取り出して読み始めた。あーまたかよ。それも毎朝繰り返されていることで、読んでいる本も毎朝同じだった。よく飽きないもんだ。
『中原中也詩集』 本の背にはそう書いてある。
ナカハラナカヤ。
その、なにかの呪文のような名前は、後輩の名前に少し似ているとか思う。初めて見た時は思わず笑いそうになった。だって
ナカハラナカヤだ! これを笑わずにいられるかっての!
視線をちょっと上げると、女は小さな目で睨み付けるように、鬼気迫る表情で詩集の文字を見ていた。キモ。
ゴオォオ――キュウゥンウンウンゥ――オオォ。 がつん、と床を叩くヒールの音と一緒に、女の身体が右に傾く。それとほぼ同時に、忙しなく手帳をめくっていた女も、立ったまま居眠りしていた男も、頭も幸も薄くなりかけた男も、さっきまで一心不乱に顔面工事をしていた女も、こぞってドアに向かう。確かジエータイの朝とか、こんなんだってテレビでやってた気がする。ラッパの音で、みんな一気に動くの。電車が止まる頃にはもう、車内で開店待ちみたいな行列が出来上がっていた。
それを眺めていた俺の視界を、なんか黒いのが遮った。女の馬鹿みたいにでかいケツだった。
ドアが開きます。ドアが開きます。ご注意ください。 女は詩集を脇に挟んで、でかいケツを左右に振りながら人の流れに混ざる。
1番線※※行きドアが閉まります。がぁあ――ピポォンピポンピポォン――あぁああ。 女のケツはすぐに人込みに埋没して見えなくなった。
ゴゴン、ゴゴン。 電車がホームを走り出す。一気に車内から人がいなくなった。二駅後。降りる時に、何かを踏んで足を少し滑らせた。
それは
ナカハラナカヤの詩集だった。多分、あの女が降りる時に落としたんだと思う。
白い表紙には、茶色くくっきりと俺の運動靴の跡が付いてた。でも踏み付けたのは俺だけじゃなかったらしい。たった二駅しか経ってないのに、詩集はかなり汚れちまってた。俺はなんか苛々して、ナカハラナカヤを蹴飛ばしてからホームに降りた。
今日ナカハラナカヤにつまずいてよー。
は?
だから、ナカハラナカヤの詩集が落ちてたんだよ。
丸井、それって。
ナカハラチュウヤじゃねぇ? 朝練で愚痴ったら、ジャッカルに散々馬鹿にされた。柳生には、それくらい常識でしょう、と嫌味っぽく言われた。それでこそ丸井先輩! と赤也に言われたから、一発殴って言い返した。
そもそもお前が紛らわしい名前してんのがワリぃんだよ! ●原●也って書いたら同一人物じゃねぇかよ、この偽ブランド! 観光地のパチモン商品!
それから一部後輩の間で赤也のあだ名が、「ワカメ」から「偽ブランド」に変わったらしい。ちょっと悪いことしたかな、とか少しだけ思った。
詩集の女は次の朝から現れなくなった。その次も、さらにその次も。きっと
ナカハラナカヤじゃなかった、ナカハラチュウヤを失くしたからだ。
よごれちまった 悲しみに 国語の教科書にナカハラチュウヤがいるのを見つけた。その詩を見て、俺は自分が踏み付けた詩集を思い出したのだった。
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なんとなく丸井です。
タイトルもなんとなくです。
そして、たったこれだけ書くのにどれだけ時間を掛けているんだと自分に言いたい…orz
執筆スピードを早くしたいです。
それでは。